私には文通友だちが1人いる。名前も住所も知っているけど会ったことはないので顔も声もわからない。ネットの文通相手を探すサイトで知り合った。同性で、2回りほど年上の方だ。月に1往復くらいの頻度でやりとりしている。

文通友だちがほしいと思ったきっかけは2つある。1つは、その時私は引っ越したばかりで、何人かいた友だちと遠く離れ、趣味についてやりとりできる相手がほしかったこと。もう1つは、文通そのものに興味があったこと。

私はリアルの友だちをつくるのが苦手だ。相手に嫌われたくないあまり素の自分を出せないし、ちょっとしたことですぐ傷ついてしまう。相手についても自分についても不必要にがっかりしがちだ。結局上辺だけの浅~い付き合いで、すぐに終わってしまう。

この人とは長く付き合いたいなと思って勇気を出して会い続けて、自分の実存に関わる深い話もしたとしても、物理的距離ができるとやはり会わなくなる。メールも手紙も、結局続かなかった。私から出して2回以上返信がないと悲しくてもう出せなくなる。相手は忙しいだけなんだろうけど。でも私はどんなに忙しくても返信ができる人間なので、きっと私は相手にとってそれほど気を遣われる対象ではないんだ、と感じてしまう。報われなさ、というか想いの非対称性への虚しさというか……。

そんな時、その人はもう友だちというよりは”友だちだった人”になってしまう。

では文通友だちはどうかというと、住んでいる場所がどんなに遠くても(物理的距離があっても)、私とやりとりを続けてくれる人だ。

相手も自分も、主に好きなこと・楽しいことを優しい言葉で送り合うので、不要に傷つかずにすむ。表情・声色・仕草など、対面で話すと気にしてしまう情報がない。

そして、リアルの友だちと決定的に違うのは、お互いに必ず返信すること。少なくともそう信じていられることだ。私から送り続けることも相手が送り続けることもなく、1通送ったら1通返ってきてまた1通送って…が続いていく。だから”やりとり”になっていて、エネルギーが消えない。

ここに私の安心できる対称性がある。

 

私が友だちに求めるもの(の重要な1要素)は、”お互いを思いやる気持ちの対称性を感じられるか”、なのであり、”思いやるエネルギー”のやりとりが続いていくことなのだ。